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「盗まれた誇り」と文化政策——ホックシールド・インタビューを読んで考えたこと

  • 執筆者の写真: Arts&Considerations Tomoki Sakuta
    Arts&Considerations Tomoki Sakuta
  • 10 時間前
  • 読了時間: 21分


朝日新聞(2026年5月2日)に掲載された社会学者アーリー・ホックシールドへのインタビューを読み、文化政策研究者として見過ごせない論点が多数あったので、ファクトチェックも交えながら自分の考えを整理しておきたいと思います。

(会員の機能で有料記事をシェアプレゼントいただいた風間勇助先生、ありがとうございます。)


アーリー・ホックシールドは1940年生まれ、カリフォルニア大学バークリー校の名誉社会学者です。「感情労働」の概念を提唱した『管理される心』(1983年)で知られ、近年はアメリカの保守地域への参与観察をもとにトランプ支持層の感情構造を分析してきました。最新著『盗まれた誇り——喪失と恥と右派の躍進(Stolen Pride: Loss, Shame, and the Rise of the Right)』は2024年9月に刊行され、バラク・オバマ元大統領の推薦リストにも入った話題作です。日本語版は布施由紀子訳で2025年3月に岩波書店から出ています。

今回のインタビューはケンタッキー州パイクビルでの6年間・80人以上へのインタビューに基づく研究成果をもとにしたものであり、学術的な根拠は相当程度堅固です。


記事内の引用についての留保


ただし、記事中にはいくつか検証が必要な数字や主張があります。読む際に念頭に置いておきたい点を整理しておきます。まずダニエル・カーネマンの「損失回避性」の紹介について。カーネマンとエイモス・トベルスキーが1979年に提唱した「プロスペクト理論」に基づく損失回避の知見は実証的に確立されており、「損失の痛みは同等の利得の喜びの約2倍大きい」という方向性は正確です。ただしカーネマンは「社会心理学者」というよりは認知心理学者・行動経済学者であり、受賞したのは2002年のノーベル経済学賞です。また「約2倍」という数値は後続研究での再現性をめぐる議論もあり、普遍的法則として扱うには留保が必要です。

次に「世界銀行の調査によると、先進20カ国の中で米国は今や階層間の移動の可能性が最も低い国だ」という主張ですが、アメリカの世代間所得移動性が主要先進国の中で相対的に低いという傾向自体はOECDなど複数の機関が繰り返し指摘しており、主張の方向性は妥当ですが、「G20最下位」という表現は情報源の混同または誇張の可能性があります。

「今後5〜6年でエントリーレベルの仕事の60%が消滅する」という予測についても、誰がダボスで発言したのかを含めて不明です。「欧州企業の3分の2は労働者の再教育プログラムを持つが米企業は半分しかない」という比較も、原典が示されておらず検証が困難です。欧州の労働者再教育環境が米国を上回るという傾向は広く認められており、方向性は合理的ですが数字の精度には留保が必要です。

また「自分と意見が違う相手との会話を打ち切ってしまう割合は保守派よりもリベラル派の方がはるかに高い」という主張は、ホックシールド自身の参与観察に基づく側面が強く、政治心理学の実証研究では「どちらが相手の立場により閉鎖的か」について一致した結論はないようです。実験設定やサンプルによって結果が大きく変わる問いであり、普遍的事実として扱うことには慎重であるべきです。これらの留保は記事全体の価値を損なうものではありませんが、ホックシールドの分析枠組みの鋭さと、個別の統計的主張の信頼性は分けて評価することが重要です。


「プライド経済」という切り口の文化政策的意味


ここからが本題です。

ホックシールドが「物的経済」と「プライド経済」という二層構造を提示したことは、文化政策の根本的な問いを突いています。文化政策は長らく、経済波及効果・観光振興・社会包摂率・アクセス向上といった物的・数値的指標で評価されてきました。しかし人々が文化から得ているものの核心は、「自分の存在が社会にとって意味あるものだ」という確信、つまりホックシールドのいう「ミクロな名誉の感覚(micro-sense of honor)」です。


プライド経済において誇りとは、大富豪になることでも名声を得ることでもなく、後期ラテン語の「prode(役に立つこと)」という語源に戻れば、誰かの役に立ち、家族を養い、地域社会の中で自分の存在価値を感じられることです。この感覚が失われたとき、人は「喪失」を抱えます。その喪失が適切に処理されないとき、それは「恥」になり、さらにカリスマ的政治家による「感情の捕獲」の素地になる、というのがホックシールドの示した連鎖構造です。


文化政策はこの連鎖の開始位置に近い場所にある問いを扱っているといえます。地域文化の継承・アーカイブ、あるいは隣接分野であるまちづくりも含めて、「自分の技術や物語が次世代に価値を持つ」という確信を支えるとき、それはプライド経済への直接介入として機能します。物的経済の指標だけでは、この作用を捉えられません。


「シビックプライドの醸成」という言説の罠


ところが、ここに重大な逆説があります。「シビックプライドの醸成」という文化政策の言説は、プライド経済の正の活用を意図しているはずですが、実際には新たな権力作用を帯びやすいのです。


「醸成する」という動詞に既に問題が潜んでいます。それは誰かが誰かに対して承認の基準を与える行為だからです。行政や文化機関が特定の歴史・景観・産業遺産を「誇るべきもの」として選別し可視化するとき、その選別から漏れた記憶——負の歴史、周縁化された集団の語り、消えた産業と共に去っていった人々——は制度的な沈黙に置かれます。これはホックシールドが描いた「恥を抱えた人々が外部からは貧困層としか見られない」という疎外構造と、発生メカニズムが同型です。シビックプライドの制度化は、恥を解消するどころか、公認の誇りに適合できない人々に新たな恥を付与する装置になりえます。


ナショナルブランディングはさらに直截的な問題を持ちます。日本でのクール・ジャパン的な言説が典型的に示してきたように、文化の国家的動員は、個人や同人コミュニティが自律的に積み上げてきた表現実践を「国家の資産」として事後的に回収する構造を持ちます。表現者の側からすれば、自分たちの誇りの源泉が国家ブランドの価値として外部化される経験です。重要なのは、この「接収」は暴力的に行われる必要がなく、むしろ「あなたたちの文化は素晴らしい」という承認の言語で実行されるという点です。ホックシールドの「感情の捕獲」と構造が酷似しています。


本ブログでたびたび紹介してきたアメリカにおけるクリエイティブ・プレイスメイキングの変容プロセスにおいても、この構造は深く関わっています。シビックプライド論には、二つの方向への回収の危険が常に待ち構えています。

一つは経済的正当性への回収です。文化的包摂の言語が「創造都市」「観光資源」「イノベーション促進」の文脈に読み替えられ、経済合理性の論理でしか政策的な意味を持てなくなる方向です。リチャード・フロリダのクリエイティブ・クラス論が辿った軌跡——文化的多様性を謳う言語が都市ジェントリフィケーションの正当化装置に転化した過程——は、この問題の最も整理された事例です。

もう一つは制度的正当性への回収です。DEIや多様性が指標・KPI化されることで「達成された多様性」が自己目的化し、実際の権力関係の変容を免除する方向です。アメリカでは、クリエイティブ・クラス論への批判を受けてNEAが展開したクリエイティブ・プレイスメイキング政策が、経済活性化の看板からDEI・equityへと重心を移していきました。しかしCPMの概念そのものが多義的であったこと、また制度的正当性への回収を避け実質的な変化をもたらすためには構造的な問題として捉えて、政策決定プロセスそのものに住民や現場に近いアーティストが関与する方向への転換をしなければならないという問題意識が現場に浸透しています。その代表例が、2015年の決議を起点にロサンゼルス郡が18ヶ月の公開プロセスを経て2017年に発表したCEII(Cultural Equity and Inclusion Initiative)です。スタッフ・理事会・観客・プログラミング・アーティストという5領域すべての意思決定に住民や現場のアーティストが関与する構造を求めたこのイニシアティブは、「何を支援するか」という内容の問題ではなく「誰が決めるか」という権力の構造を変えることなしにプライドの実質的な回復には繋がらないという認識に立ったものでした。そのCEIIの初代共同議長を務めたMaria Rosario Jacksonが、後にバイデン政権下でNEA議長(2022〜2025年)に就任したことは、こうした現場から積み上げられた問題意識が連邦レベルの政策形成へと接続された経緯を示す象徴的な事実です。つまり「何を支援するか」という内容の問題ではなく、「誰が決めるか」という権力の構造を変えることなしに、指標を変えてもプライドの実質的な回復には繋がらないという認識に立った改革です。

このことは、2025年2月のトランプ政権によるNEAのDEI関連条項の撤廃という局面においても示唆的です。連邦レベルでDEI語彙が禁止された後も、一部の実践は語彙を変えながら継続しています。本ブログでも取り上げたように、このレジリエンスの背景にあるのはまさに「誰が決めるか」という権力構造の変革を現場が内面化していたことであり、制度の語彙が変わっても実践が続く条件がすでに根付いていたからではないでしょうか。仮に制度的正当性へ回収されただけであれば、政治的な圧力によって完全に終わっていたかもしれません。表現を変えれば、承認の言語を制度に組み込むだけでは、その言語が政治的に逆用されることへの耐性を生まないのです。


アームズレングス/内容不関与原則の限界と「悪魔の証明」問題


20世紀後半以降の文化政策の世界では、国家と文化の距離を保つ制度的工夫として、英国型のアームズレングス(内容不関与)原則とピア・レビュー型の評価制度が重視されてきました。しかしこの仕組みにも根本的な弱点があります。


それは「関与の形式的距離」を証明しようとする構造であって、「承認の政治性そのもの」を解体しないことです。資金配分の基準・評価指標の設定・政策的優先領域の決定という上流の意思決定自体が既に価値選択であり、「誰の誇りが制度的に可視化されるか」を決定する権力として機能しています。形式的なピア・レビューはこの上流の問題を免除できません。


さらに深刻なのは、「国家は文化的内容に関与していない」という主張が、悪魔の証明の構造を持つという点です。不関与を主張することは、「不関与の主張そのものが政治的行為である」という批判を生み、その批判を感情的動員の材料として使われることを防げません。国家文化政策の正当性主張が、感情的動員の燃料になりうるという逆説は、制度設計論として真剣に受け止める必要があります。


「奪われた物語」の問題もここに絡みます。「失われた」から「盗まれた」への転換が一度定着すると、その物語は証拠の有無に依存しないため反証が極めて困難になります。反証そのものが「否定する側の動機の証拠」として読み替えられる構造は、ニーチェが「道徳の系譜学」で描いたルサンチマンの認識論的構造に近く、この状態に対して「正しい文化的情報」や「アクセス向上」を処方するアプローチは効果が限定的です。アクセスの問題ではなく、意味付与の構造の問題だからです。


構造的変化のために何ができるか


では、どうすればよいのか。いくつかの方向性を考えてみたいと思います。


一つは、承認の「分散」ではなく承認の「複数化」という設計です。コミュニティ・ファウンデーション型の資金循環モデルやピアリング型の評価制度が理念として目指すものですが、重要な追加条件があります。それは「国家が承認しないものを承認する回路」を意図的に制度内に組み込むことです。シャンタル・ムフの「闘技的民主主義」の観点から言えば、特定の物語の勝利や統合ではなく、複数の物語の持続的緊張状態を保護する設計が目標になります。


もう一つは、国家が特定の文化的物語を支援するのではなく、物語が生まれ・流通し・変容し・忘れられる生態系のインフラに関与するという概念的転換です。アーカイブ・記録・オーラルヒストリーの制度的保護、地域の負の歴史も含めた多声的な語りのプラットフォーム整備は、「誰かのために作る」のではなく「誰もが使えるインフラとして設置する」という発想の転換を必要とします。日本の同人コミュニティが自律的に担ってきた「公認されない物語の保存と流通」は、まさにこの機能を非制度的に果たしてきました。「国家による可視化」という機能に依存しないコミュニティの好例と言えましょう。ただし、「国家による可視化」に依存しないことと、国家がそのコミュニティの存在を認知しないこととは別の問題です。同人コミュニティに限らず、広く一般に知られていなくとも実質的に機能しているコミュニティが、公的施設の使用許可を得て活動を継続できることは、表現の自由の観点からも文化政策の観点からも、可視化・承認とは切り離して保護されるべき条件として論じられてきました。しかし、国家が「関与しない」ことと「存在を認めて条件を整える」ことの境界線そのものが、今日の情報環境と政治状況の中で揺らいでいます。(この問いは、後の補足部分で論じる美術ジャンルにおける承認構造の問題とも地続きです。)


制度設計論としては、「不関与の証明」をしようとすることをやめるという逆転の発想も有効です。「国家は文化的内容に関与しない」という証明不可能な主張をするのではなく、「国家が何をすることができて、何をすることができないかの限界を明文化し、違反した場合の救済制度を設ける」という方向に転換することです。日本の文化芸術基本法第2条には「国及び地方公共団体の関与の在り方」についての規定が形式的に存在しますが、具体的な限界の明文化と違反救済手続きという実体的部分は空洞のままです。この空洞を埋める立法政策論の構築は、文化政策研究者が担える固有の貢献です。


日本語圏の言説環境


ここで日本語圏固有の問題に触れておきます。本記事でホックシールドは「バイリンガル」な公共討議の重要性を説きますが、そもそも対立する立場が同じ空間で議論し続けられることの意義をまず確認する必要があります。


シャンタル・ムフが「闘技的民主主義」と呼んだのは、政治的対立を解消・統合しようとすることではなく、対立を「敵対」ではなく「闘技」として制度化する、つまり意見の異なる者が同じルールの下で継続的に競い合える場を維持することです。この発想は、感情的な分断を「癒す」ことを目標にするのではなく、分断が存在することを前提として共存の条件を設計するという、より現実的な出発点を提供します。しかし、日本語圏では、こうした闘技的な公共討議が匿名でないと成立しにくいという構造的な条件があります。総務省のメディアへの信頼調査が示すように、日本のマスメディアへの信頼度は国際的に見て高い水準にありますが 、この高信頼は「異論を出さないことへの同調圧力」と組み合わさると、公的空間での個人的意見表明を抑制する方向に働きます。実名での政治的発言が社会的リスクを伴うと感じられる環境では、闘技的な討議は匿名空間にしか居場所を持てません。


ここで重要なのは、匿名での討議を「劣位の公共圏」と見做すのではなく、ナンシー・フレイザーが「対抗的公共圏(subaltern counterpublics)」と論じたように、支配的言説に参入できない主体が自分たちの語彙・規範・主張を練り上げる空間として肯定的に位置づけることです。問題は匿名性そのものではなく、その対抗的公共圏が正式な政策討議の場に接続される回路が存在しないことにあります。


この構造的条件をさらに複雑にしているのが、外国勢力による情報干渉の問題です。防衛省の「最近の情報戦の動向」報告書によれば、ロシアや中国はSNSを介した偽情報の流布・世論操作・社会の分断を企図した情報拡散を国内外で展開しており 、日本政府もAIを活用した情報空間の監視予算を3年で10倍以上に増やすなど対応を強化しています 。2025年7月には平将明サイバー安全保障担当相が「外国勢力によるSNSを通じた選挙干渉は民主主義に対するリスクだ」と明言し、政府横断的な対応の必要性を示しました 。


文化政策の観点からこの問題を捉え直すと、「感情的免疫」の問題として定義できる可能性があります。外部勢力が利用するのは既存の感情的分断であり、「奪われた誇り」の物語を持つ層は感情的に可塑的になっており、干渉の最も有効な標的になりがちです。感情的免疫を高めること、つまりプライドの自律的な根拠を持てるようにすることは、国家による文化政策の課題として正当に語れる領域です。ただしここでも、国家が「感情的免疫を強化する」という名目で文化政策に介入するとき、それ自体が別の感情の交通整理になりかねないという逆説は消えません。この問いは、本稿を通じて論じてきた「関与の限界」の問題と地続きです。


私自身への示唆


本記事を読み終えて、「指摘するだけでは変わらない」という自覚から出発するとき、研究者・行政書士・講師・コンサルタント・実践者といった複数の立場を持つ自分のような個人にできることは三つあると感じました。


一つは「概念の翻訳者」としての役割です。「闘技的民主主義」「プライド経済」「対抗的公共圏」といった概念は、英語圏の理論として輸入されると日本の言説環境では外来の規範として退けられやすい。これらを日本の具体的な文化的文脈——地域の祭り・無形文化遺産の担い手・同人コミュニティ・地域芸能——に接続し直す作業は、理論の翻訳であると同時に政策言語の更新です。現場の実務経験と研究蓄積を持つ立場から「実際に起きていること」を抽象的な政策議論に橋渡しできる人間は限られており、それ自体で貢献できるなるかもしれません。


二つ目は「傾聴の場を設計し記録する」実践です。ホックシールドがケンタッキーで行ったような参与観察的な傾聴は、学術的方法論であると同時に社会実践です。政策の受け手側がプライドをどこに見出し、どこで傷つけられていると感じているかを質的調査として蓄積し、それを政策評価の言語として提示することは、マスメディアが伝えない感情の地形図を可視化する作業であり、「指摘するだけ」を超えた介入になります。


三つ目は「制度設計への介入点の特定」です。文化芸術基本法の空洞性を学術的に記述するだけでなく、具体的にどのような条文・運用規範・救済制度が必要かという立法提言の形にまで落とし込む作業は、政策コンサルタントの立場から実際に届けられる射程を持ちます。



むすびにかえて


ホックシールドが86歳で現地調査を続けているのは、構造を直接変えようとしているからではなく、「感情の地形図を丁寧に描き続けること」が次に変化の条件が整ったときに意味を持つという確信からではないでしょうか。誰も記録しないものを記録し、誰も翻訳しない概念を翻訳し、誰も届けない問いを政策の回路に届け続けること——それは地味ですが、構造的変化の根拠は、そういった蓄積の中にしかないと思っています。



補足:「美術における承認構造の特殊性」


文化政策の中でも特に「美術」は、承認の権力構造が人々に最も強く意識されやすい領域です。音楽や演劇が「場の空気」として経験されるのに対し、美術作品は物理的な形として残り、展示・収蔵・市場価格・批評言語という複数の承認回路が重層的に機能します。「美術館に収蔵された」「権威ある賞を受けた」「批評家に取り上げられた」という事実は、作品の質の証明であると同時に、誰の表現が「文化」として公認されるかを選別する制度的な装置として働いています。


この構造はホックシールドのいうプライド経済の作用が最も露骨に現れる場でもあります。承認された側には「自分の表現が社会に意味をもたらした」という深いプライドが生まれますが、同時に承認の回路に乗れなかった無数の表現者が「自分の作るものは本物ではない」という恥の感覚を内面化するリスクを持ちます。これはホックシールドが描いた炭鉱労働者の娘が「私たちは貧しい」とは言わなかった心理と構造的に同型です。自分の表現実践の価値を、外部の権威が設定した基準で測られ続けること自体が、静かな誇りの剥奪として機能しうるのです。


ホワイトキューブという承認装置


美術における承認の問題を語るとき、「ホワイトキューブ」という空間の話を避けることはできません。白い壁・均質な照明・静寂・禁止事項——こうした美術館・ギャラリーの様式は、19世紀末から20世紀初頭にかけて成立した歴史的に特殊な展示形式です。美術史家ブライアン・オドハーティが1976年の論考「ホワイトキューブの内側で」で指摘したように、この空間は作品を日常から切り離し、「ここにあるものは美術である」という宣言を空間そのものが行う装置として機能しています。


重要なのは、この空間に入ることができる作品・作家・観客と、そうでないものとの間に、見えない境界が引かれているという事実です。どの作品がホワイトキューブに入れるかを決定するのは、キュレーター・批評家・コレクター・美術市場という相互に参照し合う権威の網目であり、その網目は特定の教育的背景・言語・ネットワークへのアクセスを持つ人々によって主に構成されてきました。ここに「承認の独占」の問題があります。


ただしホワイトキューブを単純に否定することは別の問題を生みます。その形式が生み出す集中と静謐は、作品と観者の間に固有の経験を成立させる条件でもあり、展示形式としての有効性は否定できません。問題はその形式が「美術の唯一の正統な文脈」として機能してきたことであり、その独占性に対して文化政策がどう向き合うかという問いが残ります。


アートフェスティバルの可能性と回収の問題


日本では1990年代から、地域を舞台にしたアートプロジェクトが各地で展開されてきました。その先駆けとして特筆すべきなのは、山野真悟らによる「ミュージアム・シティ・プロジェクト」(福岡、1990年〜)です。美術館の外に出て都市空間全体を展示の場とするこの試みは、後の地域芸術祭の形式的な先例として位置づけられます。2000年に始まった越後妻有の大地の芸術祭は、その方法論を農村・過疎地域に応用し、3年ごとの開催サイクルで継続してきた日本最大規模の地域芸術祭です。これらは美術館の外に出ることで、ホワイトキューブの独占性への批判的応答として機能してきた面があります。地域住民が作品制作に関わる・廃屋や農地が展示空間になる・観光客が地域に来ることで経済的な循環が生まれるという効果が政策的にも評価されてきました。

一方、シビックプライドの醸成という文脈で特に注目されてきたのが横浜・黄金町バザールです(2008年〜)。京急線日ノ出町〜黄金町駅間の高架下一帯は戦後から非公認の売春街として知られ、1990年代には麻薬売買も拡散した地区でしたが、2005年の警察による大規模な浄化作戦の後、NPO法人黄金町エリアマネジメントセンターと地域住民による「アートによる街の再生」が始まりました。国内外のアーティストを招き、高架下スタジオを中心とした展覧会・ワークショップを毎年開催するこの試みは、「負の歴史を持つ地域がアートを通じて誇りを取り戻す」過程として広く引用されてきました。行政・NPO・市民協議会の協働という枠組みも評価されており、シビックプライドを育む装置としてのアートの代表例として各地の政策担当者に参照されています。

しかしどちらの事例も、美術館への収蔵という形式的な承認が不要であっても、「権威ある芸術祭への参加」「専門家キュレーターによる選定」「メディアへの露出」という別の承認回路が成立しています。住民が関与したとしても、その関与が「アーティストを支援した住民」という役割に留まり、住民自身の表現や物語が主役にならない構造は珍しくありません。地域住民のプライドが本当に醸成されているのか、それとも外部のアーティストと行政の企画に「参加した」という経験が与えられているだけなのか、この問いは丁寧に問い直される必要があります。

黄金町の事例はさらに複雑な問題を含んでいます。「負の歴史を反転させる装置としてアートが活用されている」という評価は正確ですが、その反転が何を覆い隠すかという問いが残ります。かつてそこに生きた人々の記憶・生業・関係性は、「アートの街」という新しい物語の中でどう扱われるのか。シビックプライドの醸成が「この街は生まれ変わった」という物語に依拠するとき、それは前節で述べたシビックプライドの罠——選別から漏れた記憶への制度的な沈黙——を別の形で再演してしまう可能性を孕んでいます。


アートが終わった後に何が必要か


アートフェスティバルや文化プロジェクトが生み出すコミュニティレベルのプライドの醸成には、確かな可能性があります。しかしその可能性は、アートの枠組みが撤退した後に何が残るかという問いと不可分です。表現の場・傾聴の関係性・多声的な歴史の語りが、文化政策の終了後も持続するためには、別の枠組みへの引き継ぎが必要です。

その引き継ぎの候補として考えられるのは、図書館・公民館・コミュニティセンターといった生活インフラに近い公共施設です。これらは継続性を持ち、特定のアートプロジェクトの文脈から独立して運営されます。アートが「プライドの根拠を問い直す場」を一時的に作ることができるとすれば、その問い直しの経験を日常的な場に接続することが、文化政策の次の課題として見えてきます。

しかしここでも注意が必要です。生活インフラ的な公共施設に「アートプロジェクトの精神」を継承させようとする試みは、その施設本来の文化——地域の人々が長年かけて作り上げてきた非アート的な場の使い方——を上書きするリスクを持ちます。引き継ぎとは、アートの語彙を持ち込むことではなく、アートが可能にした「自分たちの物語を自分たちで語れる」という経験を、その場に固有の言葉で継続できる条件を整えることです。

この区別は、自律的なプライドの保護という観点からも重要です。アートフェスティバルが生み出す承認の構造——選ばれた地域・選ばれた住民・選ばれた表現——から解放されたとき、はじめてコミュニティは自分たちの基準でプライドの根拠を選択できます。文化政策がその移行を支援するためには、「アートとして認められること」を目標として設定しないことが、逆説的に最も重要な設計原則になるでしょう。


ホワイトキューブの内側にも外側にも、誰かの承認を必要としない表現がすでに無数に存在している。文化政策が本当に守るべきは、その事実そのものだと私は考えています。



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