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怒りはデータに、データは制度に――米国美術館アートワーカー労働運動の三段階と日本への問い

  • 執筆者の写真: Arts&Considerations Tomoki Sakuta
    Arts&Considerations Tomoki Sakuta
  • 4月13日
  • 読了時間: 9分

「好きなことを仕事にできているのだから」。アート業界で働く人々が、低い報酬や不透明な処遇を前にしばしば向けられてきた言葉です。本ブログではアーティストやクリエイターへの公正報酬について取り上げてきましたが、文化・芸術への「情熱」が、適正な対価を求める声を封じる口実として機能してきた構造は、作品の作り手に限った話ではありません。美術館・ギャラリー・劇場といった文化機関において、給与水準は長らく非公開とされ、横断的な比較も困難なまま放置されてきました。その結果、低賃金・不安定雇用・昇進機会の不透明さが「業界の常識」として内面化され、当事者自身が問題として言語化することを躊躇う状況が続いてきました。日本のみならず、アメリカを中心に海外でも同様の問題が水面下で拡大してきましたが、可視化されにくいまま放置されてきたとも言えます。

しかし昨今、こうした慣習は改められなければならないという認識が広まっています。優秀な人材が業界を離れ、多様な背景を持つ人々が入口で弾かれ続ける構造は、文化機関、ひいては文化セクターそのものの持続可能性を脅かす問題です。美術館や劇場が社会の変化に応答し続けるためには、それを担う人材の多様性と継続性が不可欠であり、待遇を含む労働環境の改善は「福祉的措置」ではなく、文化セクターの長期的な存続戦略として位置づけ直される必要があります。

こうした「やりがい搾取」的構造に対し、最初に声を上げたのは制度でも研究者でもなく、2019年にアメリカの美術館で働いていたひとりのアシスタント・キュレーターでした。その後今日までの6年余りで、米国の美術館セクターは「現場の怒りが言語化され、データとなり、政策的アドボカシーに昇華される」という三段階のプロセスを急速に進めています。日本の状況と比較したとき、多くの示唆を与えてくれます。


第一段階:破られた沈黙(2019年)


2019年5月31日、ひとりのキュレーターがGoogleスプレッドシートを公開しました。フィラデルフィア美術館のアシスタント・キュレーター、ミシェル・ミラー・フィッシャーらが作ったその匿名シートに、美術館で働く人々は機関名・役職・年収・雇用条件・人種・性別を書き込み始めました。わずか数日のうちにエントリーは3,200件を超え、海を越えて、スミソニアン協会の部門長(年収15万6,000ドル)からアムステルダムの美術館インターン(月250ユーロ)まで、業界が公言を避けてきた数字が一気に可視化されました。「Art + Museum Salary Transparency(A+MT)」と名付けられたこの活動は、ニューヨーク・タイムズをはじめ主要メディアが取り上げ、「美術館は公共の文化空間であると同時に職場である」という当たり前の命題を、業界全体に突きつけました。


この着想の源は、同様に待遇についての問題を抱えがちな大学セクターにありました。2012年、劣悪な処遇に置かれた大学非常勤講師たちが自らの給与を匿名でシェアする「The Adjunct Project」を始め、高等教育の賃金問題を可視化した先例です。A+MTが行った美術館版のスプレッドシートはその構造を直接借用し、「業界の慣習として誰も口にしない数字を、当事者が書き込む」という単純な仕組みで機能しました。


同じ夏、さらに別の匿名で書き込めるスプレッドシートも作られました。こちらは美術館インターンの報酬(あるいは無報酬)を集めたものです。


このCOVID-19禍の前年、「情熱があれば低賃金でも続けられる」という業界の暗黙の了解が、数字によって解体されていく過程は、特定の組織が問題を「発見」したのではなく、現場の当事者たちが集合的に問いを立て、データが自然に集まったという点で、それ以前の業界改革論議とは性格が根本的に異なっていました。


第二段階:集合的な怒りの組織化と業界改革の始まり(2019〜2022年)


A+MTが火をつけた問題意識は、翌年以降、「美術館での労働組合の設立」という制度的形態へと変換されていきます。2019年から2020年にかけて、グッゲンハイム美術館、テネメント・ミュージアム、ニュー・ミュージアム、ブルックリン音楽アカデミーなど複数の著名機関でスタッフの組合組織化が相次ぎました。これは米国の労働運動全体の文脈(同時期のAmazon倉庫労働者やスターバックス店員の組合化)とも連動していますが、美術館セクターに固有の事情として、「公共的使命を語りながら内部では低賃金と不透明な評価が続く」というダブルスタンダードへの強い批判が背景にあります。


並行して、給与水準の透明化を求めるアドボカシーも組織化されていきます。


2016年から43の美術館関連団体と連携して活動してきたNEMPN(National Emerging Museum Professionals Network=全米新興美術館専門家ネットワーク)は、2022年5月に「#ShowTheSalary」署名運動を立ち上げ、たちまち600件以上の署名を集めると、同年7月、各美術館・求人サイトが募集票に給与レンジを記載しているかどうかを機関別・サイト別に継続追跡する「Equity in Pay + Pay Transparency Accountability Tracker」を公開しました。ニュースサイトHyperallergicもこのデータベースを取り上げ 「個人の告発から組織的な制度監視へ」という移行を広く知らしめました。

このアドボカシーは直接の成果を生み、数カ月後の2022年11月にはAAM(American Alliance of Museums=全米美術館協会)が求人票への給与レンジ記載を義務化しました。現場の怒りから始まったスプレッドシートが、3年あまりで業界最大の統括団体の制度標準を書き換えたことになります。給与の透明化は、求職者が経済的な見通しを持って業界に参入できる条件を整えるという点で、多様な人材確保と文化機関の持続可能性の両方に直結する施策です。


第三段階:データが政策アドボカシーに昇華(2020年〜現在)


2020年、MoCA(ロサンゼルス現代美術館)の元シニア・キュレーター、ミア・ロックスらがMuseums Moving Forward(MMF)を設立しました。注目すべきはその組織設計にあります。MMFは自らを「2030年までに解散するリミテッドライフ組織」と定義しています。改革を永続的にロビーするのではなく、「2030年までに業界を変革するための証拠と言説を蓄積し、その後は役割を終える」というサンセット戦略を明示することで、既存の業界団体とは一線を画すアドボカシー主体として位置づけています。


MMFの最大の貢献は、現場の怒りを「感情」ではなく「比較可能なデータ」に変換したことです。2023年の第一報告書は全米54以上の機関から1,933名を対象に調査し、美術館労働者の74%が基本的な生活費を常に賄えないこと、68%が離職を検討したことがあること、昇進に平均12年かかることを示しました。特筆すべきはエグゼクティブレベルでさえ29%が生活費不足と回答しているという数字で、これは「情熱さえあれば」という業界の自己正当化を経営者の側からも否定するデータとして機能しています。

そしてこれらの数字は、単に個々の労働者の困窮を示すにとどまりません。2020年から2022年の間に採用されたフルタイム職員の30%がすでに離職しているというデータは、文化機関が人材育成に投資しても定着させられないという組織的な持続可能性の危機を示しています。多様な人材を採用したとしても、働き続けられる環境が整っていなければ、多様性の確保はその都度リセットされる消耗戦になってしまいます。

さらにMMFの調査設計は、Director・HR・現場スタッフの三層を同一機関内で並行して調査する構造を持っています。これにより「経営層が認識していること」と「現場が体験していること」のギャップを同一組織の断面として切り出すことができます。この手法は、単なる「不満の集計」を超えて、組織文化の診断ツールとして機能しています。


2025年秋の第二報告書では縦断的比較が初めて導入されました。多様性の面では、ノンバイナリー(性自認が男性、女性に区分されない人)の労働者の比率は2023年比5ポイント増の9%、障害を持つ労働者は7ポイント増の24%となり、「入口の多様化」は一定程度進んでいます。しかし5人に1人が現在の職場でハラスメントや差別を経験しているというデータも同時に記録されました。多様な属性の人々が「入れるようになった」にもかかわらず「職場環境の改善が追いついていない」という構造的矛盾は、インターン拡充や採用多様化といった入口政策の限界、あるいは業界に根強いダブルスタンダードの存在を示唆しているといえます。


日本への示唆


先日のブログでも取り上げましたが、京都では2024年にKyoto Arts Meetingによる「京都を拠点とするアートワーカーの労働環境に関する実態調査2024」が行われ、フリーランスから文化施設職員まで横断的に調査しました。この調査ではアーティスト、アートマネージャー・舞台制作者・批評家・デザイナーまでを「アートワーカー」と広義に定義している点が特徴的です。また京都市芸術文化協会が運営するCP Lab. Kyotoによる「アートワーカーの労働環境に関する調査2025-2026」では特にアートマネージャー・コーディネーターなどの中間支援人材に焦点を当て、研修機会の不足・引き継ぎ体制の脆弱さ・専門性の社会的評価の低さが主要課題として浮かび上がっています。引き継ぎ体制の脆弱さという問題は、組織の記憶と専門知識が属人化し、担い手が去るたびに失われるという文化機関の持続可能性に直結する課題です。


また全国規模では、art for allが2022年に主に美術家を対象に実施したアンケートで、回答者の95%が年収500万円未満であることが示されました。


美術家の貧困問題と美術館職員の低賃金問題は論点を異にしますが、「アートに関わることで生計を立てる人々の経済的実態が構造的に不可視化されてきた」という問題意識は共通しています。そして経済的に持続不可能な環境は、出身家庭の経済的余裕や地縁・人脈を持つ人々だけが残り続けるという参加者の同質化をもたらし、文化そのものの多様性を損なうという悪循環を生みます。


日米を比較すると、問題意識の起点は驚くほど類似していますが、制度化のルートが大きく異なります。米国では「匿名スプレッドシート → 組合組織化 → 独立アドボカシー組織」という民間主導・集合的怒りの自己組織化を経て、MMFという調査機関が生まれました。日本では「公設機関・NPO・ネットワーク型任意団体による調査」が並走し、行政との連動を模索しながら問いを制度に近づけようとしています。


どちらが優れているとは言い切れません。しかし「スプレッドシートで始まった問いを誰が制度化するか」という核心の問いに、それぞれの社会が異なる回路で答えようとしていることは確かです。


美術館は公共の文化空間であると同時に職場です。それは2019年のスプレッドシートが示した最もシンプルな命題でした。その命題が6年間かけて組合組織化・透明性監視ツール・調査組織・政策アドボカシーへと形を変えながら生き続けていることを、日本のアートマネジメント関係者は他人事として読む必要はないはずです。


【参考】

- Art + Museum Transparency(A+MT)スプレッドシート 2019

 → 報道記事(スプレッドシートは現在アクセスできない):https://www.artsy.net/article/artsy-editorial-online-spreadsheet-revealed-museum-workers-salaries

Hyperallergic「New Database Shows Which Museum Job Boards Post Salaries」Elaine Velie, July 13, 2022

Museums Moving Forward(MMF)2023 / 2025年次報告書

CP Lab. Kyoto「アートワーカーの労働環境に関する調査2025-2026」

art for all アンケート調査 2022(美術手帖による報道)

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